いつしか、忘れ去っていた一通の
手紙から感じるあの日の空気
母の筆跡、あたたかな思い。
深い愛と悲しみ、切なさ。
それは、私の感情と意識、
魂がタイムループするかのように
37歳の母から15歳の私へ贈られた手紙を読んで、
38歳になった私が思うこと。感じること。
過去の「 私 」に、教えられたこと。
「 未来 」の私から、伝えられたこと。
当時の「 私 」が言語化出来なかった思いが、
誰かの勇気や豊かさのきっかけになるかもしれない。
そう信じて、書き綴ります。
Historyの一部には、震災・暴力的な内容・表現が含まれます。
もしも気分が悪くなる方は、読み進めるのを止めてください。
阪神大震災が起こった1月17日、5時46分。
当時、私は11歳だった。
突然にドーンとした大きな音の後、何もかもが大きく揺れ始めた。
「 これが地震か・・。 」
まだ眠かった私は、
再びうとうとと瞳を閉じていた。
「 早く、起きて! 」
母の大声に驚いて、ハッと目が覚めたのは僅か数秒後のことだった。
リビングに到着した私が目にしたのは、
白くて丸いローテーブルの下で、
小さく震える白い犬。
マルチーズのマコだった。
いつもの強気な姿とは違い、
まるで別の犬のようにも見えた。
それから、いつになく難しく、
神妙な面持ちで立ち尽くす両親の姿。
しばらく停電したのかもしれないけど、
もうあまり覚えていない。
「 お義母さん、大丈夫やろか・・。 」
母の言葉と、頷く父。
阪神大震災で被害が大きかった神戸市長田区には、父方の祖母が一人で住んでいた。
神戸の惨状をテレビニュースで見た私たち家族は、思わず息を呑んだ。
いつも通っていた高速道路が大きく歪んで
崩れ落ち、見慣れた町が囂々と燃えている。
現実であるのに、非現実であるかのような
数々の映像がテレビを駆け巡る。
「 おばあちゃん、大丈夫なんかな・・。 」
私たち兄弟が不安を感じる間も無く、
両親は祖母の住む長田区へ出かけた。
祖母の安否確認と、水・食料を届けるためだ。
その間、私たち兄弟は
同じマンションに住んでいる
母方の祖父母の家に預けられた。
阪神大震災で、祖母を含めた
私たち家族は全員無事だったのだけれど
それは、6,434名の死者を出した歴史的大惨事だ。
家族全員が怪我一つなく生きているのは、
本当にありがたいことだった。
特に、祖母が住む当時の長田区は
被害が大きかった。
周囲の家々は多くが燃えてしまったし、
祖母宅の両隣の家も全壊だった。
長田区の古い家はそれぞれの敷地が狭く、
家と家の間隔がとにかく狭い。
至近距離に家々が立ち並び、
縦に長いのが特徴的だ。
祖母の家も5階建で、
6階には小さな屋上がある。
とにかく縦に長く長細い家で、階段は一つ。
祖母が寝ている部屋に火と煙が上がり、
階段が塞がってしまえばもう逃げられない。
風向き、揺れる方向、ガスの元栓・・・
少しでも違えば、危機的状況に
なっていたことは容易に想像できる。
祖母の家が何事もなく残ったのは、
とても不思議で奇跡的なことだった。
それは偶然なのか?
いや、私は偶然ではないと思っている。
祖母の家は、亡くなった大工の義祖父によって建てられたものだったからだ。
子どもながらに、確信めいた何かを感じていた。
「 祖母はきっと、義祖父によって守られたのだ 」と。
それは、亡くなった義祖父の仏壇を
祖母が毎日守り続ける姿を見ていたから。
義祖父と血が繋がらない父や母が、
毎年欠かすことなく、ご先祖様のお墓を御参りする後ろ姿も見ていたからだ。
義祖父は生前、大工の棟梁だったが
私がまだ幼い頃に肺の病を患い亡くなっている。
父と血が繋がった実の祖父も、
父が幼い頃にスキルス性胃癌で亡くなっていた。
私は幼い頃から、血縁でなく、
見えない思いや愛で繋がる関係性を
祖母や両親の在り方から学んでいたように思う。
ちなみに、2度も未亡人になった祖母だけれど、
今は3度目の結婚をして幸せに過ごしている。
まるで、長田のオードリーヘップバーンだ。
祖母に話したら、例の如く大笑いするだろうけど。
祖母は華道の師範を持ち、
詩吟を嗜んで、本来の意味での教養、愛、
力強く生き抜く力を持ち合わせた人。
誰のことも受け入れて、
豊かな人生経験に裏打ちされた
深く説得力のある言葉で、大きな愛を伝えられる人。
「 自分らしく、楽しく生きること 」を大切に
いつも気の合う友人に囲まれて笑っている人。
自分の苦労は極力見せず、
いつも明るく気丈に振る舞う
あたたかなエネルギーを放つ女性。
今80歳代の祖母は、孫の私から見ても
とても美しく素敵な女性だ。
そんな女性が、モテないはずがない。
阪神大震災では、箪笥の下敷きになった同級生がいた。
亡くなった方も大勢いた。
私たち兄弟だって、
揺れる向きや家具の配置が少し違えば
大きな本棚の下敷きになっていただろう。
そんな中で家族全員が無事だったのは、
まだまだすべきことがあるのだというサインなのかもしれない。
馬鹿なことを言っているなと
笑う人がいるかもしれない。
でも、生命の危機に晒されても
何故か守られたとき
そんな出来事が幾度となく続いたとき
偶然か必然か、私たちは何者かに生かされている。
そう感じるものだ。
兎にも角にも、この人生においては
意味のないことなど一つもない。
偶然が重なり合うように見えて、
何かに導かれている。
阪神大震災は私にとって、
そんなことを感じさせる尊い経験の一つだった。
あれから、もう30年近くが経つ。
まだ11歳だった私に
鮮明で強い印象を与えたもの
それは震災後の非日常的な空気と、
テレビの映像だった。
学校は当時避難所になっていたから、
震災後は一日中家にいた。
私たちがテレビをつけると、
震災を含む数々のニュースが流れ続ける日々。
異様ともいえる映像の数々。
混沌とした空気。
この世の悲しみが、
心に深く植え付けられるような感覚。
日常であるのに、非日常であるかのよう。
感じる心を鈍化させ、
麻痺させようとする防御反応。
どうにかそこから逃れようとするけれど、
誰かしらまた再びテレビの電源を入れて
一気に意識が引き込まれる。
相反した行動と心。
脳裏に焼き付いた映像。
言葉にならない違和感を、
心の片隅で感じながらも
可愛い犬と、弟と、両親と
祖父母との普通で平凡な日々が続く。
今思うと、震災後の大変な情勢の中においても
「 普通 」に生きられていたのは、
そんな時代で必死に生き抜いてきた
両親や祖父母に守られていたからだった。
我ながら、本当に恵まれた状況に
あったのだと思う。
そんな中、急遽決まった
見知らぬ土地への転居。
思えば、全てのきっかけは
ここからだったのかもしれない。
私たち家族は転居後、
人生の歯車が少しずつ狂っていくことになる。
そんなことを知る由もない私たちは
今日も「 普通 」を生きて、
見えない社会の渦へと知らぬ間に呑まれていく。
History Ⅳ へ続く →
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Mai
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