手紙から感じたあの日の空気、母の筆跡、あたたかな思い。
深い愛と悲しみ、切なさ。
それは、私の感情と意識、そして魂が
「 過去 」・そして「 未来 」へタイムループするかのよう。
過去の私から、学んだこと
そして未来の私から、今の私へ伝えられたこと。
高速移動が可能になる
リニアモーターカーが実用化される時代
今以上に、生活のあらゆるものがオートメーション化する
技術革新に伴い、人々の能力はやがて衰退して
人が、人である意味を失う−
現代は、人が人であり
日本人が日本人であり続けるための
最後の砦だといってもいい
そんなことを言ったら、あなたは笑うだろうか?
星の数ほどある可能性の中で
どの世界線を選ぶのも、どんな未来を選ぶのも紛れもなく自分自身。
激動ともいえる時代を生きる
一人の平凡な女の子から見た、平成の話をしたいと思う。
1989年。
平成元年、私は5歳だった。
丁度、日本で一番最初にできたハンバーガーチェーン店である
ドムドムハンバーガーが全盛期を迎えた頃。
初めてドムドムハンバーガーの店舗へ足を踏み入れた瞬間。
その時の小さな興奮や驚きを、今でも鮮明に覚えている。
物心ついた頃から、もの珍しいハンバーガーとポテトが
少しずつ、私の日常に入り込んでいた。
近所のダイエーで、たまに食べさせてもらえる
珍しいハンバーガーやポテト。
それは、私たち兄弟にとって
「 特別なもの 」の一つになった。
ショッピングセンターの広場にいる鳩にポテトを食べさせるのも、楽しいイベントの一つだった。
ポテトにハンバーガー、
週末に、家族で食べるカップラーメン。
外食をするなら、父が好きなラーメンに餃子が定番だった。
母はもちろん、人並みに料理をしていたし、
一から調理された一般的な家庭料理も食べていた。
それでもレトルト食品の数々が、
共働きの我が家の救世主であったことは間違いない。
両親が共働きとなってからは、同じマンションに住む祖父母に育てられることも多かった。
祖父母たち自身はごはんに味噌汁という粗食が中心だったけれど、
可愛い孫のためにと、特別に用意してくれるごはんがあった。
それは、「 コープさんのお寿司 」だった。
祖父が用意してくれる「 コープさんのお寿司 」も、私たちにとっての特別だった。
祖母に習った、モチモチとした「 すいとん 」も。※
※小麦粉で作った団子
私たちが喜ぶだろうと用意してくれるヤクルトも、カルピスも。
この頃、刺激的で目にも鮮やかなご馳走の数々が、とても楽しく良いものだということが私の潜在意識に刻々と刻まれていったように思う。
ほどなくして、幼稚園へ入学した私と弟は
毎朝二人で、近所のパン屋さんへ食パンを買いに行くのが日課となっていた。
幼稚園バスが来る前に食パンを買い、家に帰るという任務をこなす。
パンがなくなれば、また買いに行く。
長ーいパンの塊が、みるみるうちに素早く、薄くスライスされていく。
思うまま、自由自在の薄さ・枚数に瞬時に食パンが切り分けられる様子を見て、パン屋さんのおばちゃんが魔法使いのようにも見えていたっけ。
私は、パンもラーメンも何故か好きになれなかった。
けれど、こういうものなのだと、なんの疑いもなく食べていた。
そんな毎日が続いたある日のこと。
朝食中、ピザトーストを食べていた私の舌に
突然、電気のような小さな刺激が走った。
ピリッとした静電気のような刺激と、舌へ渦を撒くように広がる違和感。
次の瞬間、私は白目を向いて天井を見上げていた。
弟は驚き、母は叫んだ。
「 麻衣ちゃん!!! 」
渦を巻くような違和感は、やがて全身へ広がり震え出す。
痙攣発作だった。
歩いてすぐの場所にある小児科で脳波まで診てもらったけれど、原因は分からなかった。
そして次の日、同じピザトーストを食べていた私の舌に
再び小さな電流が走る。
「 あっ、これは昨日と同じだ。次は、舌にぐわんぐわんと回るような渦が広がって・・・ 」
前が見えない。
見えるのは、暗い景色と白い天井だけ。
再び、叫ぶ母の声。
微かに見える、弟の影。
20ー30秒ほど続く痙攣発作のあと、私は呆然とした。
二日連続での痙攣発作。
私は心配した母に連れられて、再び小児科を受診した。
それでも、やはり原因は分からなかった。
「 学校、休もっか。 」
私はこくんと頷き、学校を休んだ。
幸いにも、痙攣が再び起こることはなく
私も大事には至らなかった。
今となっては確認のしようがないけれど
何が原因となっていたかは言わずとも明白だろう。
同じピザパンを食べていた弟には、全く症状は現れなかったのだけど。
ひどい食生活だ、と思うだろうか。
母はいつも一生懸命な人だったし、努力の人だった。
父も真面目で、優しい人だ。
誰が、何が悪いのでもない。
そんな時代だったのだ。
まだポケベルも、PHSも、スマートフォンもない時代。もちろん、パソコンだってない。
情報を得る機会が少ない中で、賢く生きるためには本物の教養と知恵が必要だった。
本物の情報が得られなければ、知を養わなければ、生き残れない。
大切な誰かを守れない時代だった。
私の両親を含めて、その時代に子育てをしていた多くの人は
一生懸命に手探りで、子を育て、生きていたに違いないのだ。
しかしそれは、いつの時代だって同じことだ。
現代に生きる、親世代の方々にも心当たりがあるのではないだろうか。
親なら誰しも、我が子に貧しく悲しい思いはさせたくないと思うものだ。
我が子が泣いて苦しんでいるのなら、どうか変わってやりたいと神に祈るものだ。
愛する子を喜ばせたい、楽しませたい、幸せにしてあげたい。
そう心から願い、自分のことは二の次にと考えてしまうものだ。
私たちにはきっと、大切な何かを守りたいと願う遺伝子が組み込まれている。
重要なのは、それをいかにして守り抜くのかということだ。
もう亡き母方の祖父母は、第二次世界大戦の戦時〜終戦後の日本を生き抜いた人達だった。
祖母はまだ幼き頃、満州から家族と共に命辛々逃げてきた人だった。
おそらく、満州事変で起こった日中武力紛争を目の当たりにしたのだろう。
彼女は幼心に深傷を負い、晩年は何年も家から出られなくなった。
人生の時間のほぼ大半を、その傷を癒す時間に費やしたようにも見えた。
「 あいつらに、気をつけろ。」
それは、祖母が口癖のように話す言葉の一つだった。
祖父は、第二次世界大戦の終戦後、
1956年のパン職人育成のアメリカ式プロフェクトに参加した。
パン職人を経て、タクシー会社の専務としても新たなキャリアを築いた。
二人とも、真面目で優しく、誠実に生きた人だった。
「 ごはんは、一粒も残したらあかん。一粒に、7人の神様が入ってるんやで。」
食を通して、感謝や生命の尊さを教えてくれた
そんな祖母の言葉が大好きだった。
いつも格好良く日本中を飛び回る祖父が大好きだった。
祖父が日本各地で買ってきてくれる、絵葉書が大好きだった。
小学生の頃、祖父に手を引かれて歩いた神戸のルミナリエの美しさと
手の温かさ、少し気恥ずかしいような気持ちは忘れることができない。
そんな祖父が、晩年になって呟いた言葉がある。
「あぁ、あかんなぁ・・。こんなはずじゃなかったのに。」
私の脳裏に焼き付いたその声色も、表情も。
一生忘れることはないだろう。
もし、祖父母に会えたなら聞いてみたいことがある。
「 おじいちゃん、おばあちゃん。どんな瞬間が、一番幸せでしたか? 」と。
果たして、祖父母は幸せに生きたのだろうか?
実は、そんな疑問が、私の頭から離れない時期があった。
でも、今なら分かる。
祖父母は確かに、幸福な人生を生きた。
私たちという子孫を残し、不器用ながらも真剣に生き抜いたのだ。
そして孫である私が、その思いを受け継いだ。
私たちは、決して一人で生きているのではないのだ。
私たちには、時間や空間を越えて
守り抜くべきものがある。
私やあなたも、全てのルーツにある方々の思いを受け継いだ生命の集大成として、今ここに存在しているということだ。
私たちが自分自身の人生の豊かさへ真剣に向き合う時、
自分自身と深くご縁のある人々の生き様、在り方への理解は欠かすことができない。
祖父母がその生命と生涯をかけて、私に残してくれたこと。
見せてくれた在り方や、思い。
私はそれを、大切に守り継ぎ続けたいと思う。
あなたは、どうだろうか?
History Ⅲ へ続く→
※少しずつ書き綴りますので、更新を楽しみにお待ち頂ければ幸いです。
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いつもあたたかく見守り、応援してくださり感謝いたします。
大好きな皆様へ、愛を込めて
Mai
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