今、日本が消えようとしている
数年前とある新聞で目にしたコラムが、何年も私の心の奥に焼き付いて離れなかった。
「 今、日本が消えようとしている。」
そこには日本初のノーベル賞受賞文学者である川端康成(1899-1972)が、文化勲章受賞者で日本風景画家の東山魁夷(1908-1999)へ、「京都のあるうちに描いておいてください。」と頼んだというエピソードが記されていた。
「 京都は、今のうちに描いていただかないと無くなってしまいます。」
二人は、東山が川端の本の装丁を手がけたことをきっかけに親交を深め、互いに認め、尊敬し合う友人同士でもあったという。
そんな彼らの交流を通して生まれたのが、京洛四季(1998)であると。
京洛四季は、旅人であり、現代日本画の巨匠でもある東山魁夷が、彼の類稀な才能を通して京都を描いたものだ。日本の文化遺産の一つでもある名作は、川端康成の言葉によってこの世に誕生した。
東山魁夷が、京都の四季を描いた画集「京洛四季」(新潮社)に、川端康成はこんな序文を載せたという。「初めてそれを東山さんにいった頃、私は京の町を歩きながら、山が見えない、山が見えない、とわれにもなくつぶやきつづけて悲しんでいたものだ」
「古都」をはじめ、日本のうつろいゆく四季と美しさを、独自の審美眼と言葉で描いた川端康成。戦前の美しき京都を知る彼にとって、目の前で京都が変わりゆく光景は、あまりにも侘しく、荒涼たるものとして映ったのだろうか。
京都独特の美しさが好きで仕方なかった私も、近年の京都を見て、美しくも何処か物足りなさや哀しさ、違和感を覚えることがよくあった。
この違和感は一体何なのかと、常々疑問に思っていた。
戦後GHQの政策によって、日本は戦後改革が大きく進んだ。第二次世界大戦で先人の方々が命を懸けて守りつづけようとした私たちの伝統や慣習は、当然の如く失われ、その大半は消え去った。
西洋のあり方や思想が最良のものとされ、古き良き日本は古く恥ずべきものとされた。かつての日本人が継ぎつづけた想いや大和魂も、忽然と姿を消した。
京の町の変化も、そのうちの一つであったのかもしれない。
彼らが真に描き伝えたかったこととは
「今、日本が消えようとしている。」
その人生を懸けて「美」を追究しつづけた東山魁夷や川端康成が、私たちへ真に伝えたかったことは一体何なのかー。
その生涯を懸けて、究極の「美」を追い求め続けた者同士の人生が交わり、この世に生まれた名作を通して、今を生きる私たちが考えるべきことは一体何だろう。
意図的か偶然か、人は出逢う。
人それぞれに持つ「信念」や「想い」は、出逢うたびに交わる。その奇跡的な「交わり」を通して、また新たなものが創造される。
強い想いは共鳴し、昇華され、また新たな創造への可能性を示してくれる。
「年暮る」はじめ、東山魁夷が描く京都の透き通るような静けさと美しさをみて、はっとした。
何もかもオートメーション化された現代では、いつも見えない何かに追われ、忙殺され、空を見るのも忘れ、明日を生きるために今日を生きる人があまりにも多いように思う。
日々の余白もなく、疲れ果てた人が溢れ返る現代社会。そこを生き抜く私たちに、彼らが生み出した美しい作品の数々は何を伝えるのだろうか。
戦前の日本を知り、戦後大きく変わりゆく光景に違和感を覚えた彼らが、真に描き伝えたかったことに想いを馳せる。
今こそ私たちが受け継いだもの、継ぐべき想いや願いを、蘇らせるときがきているのではないか。
深く眠りつづけた私たちの奥深く美しい感性や真の想いを、新たに目醒めさせる時がきているのではないか。
彼らが描いた美しい国、日本
日本人は強い。誇り高く、優しく、美しい。
日本はその長い歴史の中で、自然や神を主とし、動植物らと共に生き、洗練された観察眼を育み続けてきた。
それ故に特定の宗教を必要とせずとも、清く美しい心を持つ類稀な民族であったという。
あらゆるものに美を見出し、それらを芸術として高度な技術力で表現した。慎み深く美しく、言の葉や仕草で愛や感謝を伝え、高い精神性を育み続けてきた。
美しい立ち振る舞いや姿勢で信念を貫き、最期の瞬間まで大切な人を守ること、美しく在り続けることを選択し続けてきた。
美しい国、日本。
過去の美しい日本文学や芸術作品、かつての日本人の方々のエピソードを見聞きする度に、この日本を守り続ける日本人の一人であることに、私は誇りを感じている。
想いが響き合い、創造されるもの
ある意味で、人生は芸術である。
私もまだ道半ばであるけれど、彼らのように人生を懸けて「美」や「愛」を追究し続けたい。それぞれの強い想いが交わり、繋がり、新たに創造される芸術をこの眼でみてみたい。感じてみたいと思う。
彼らのエピソードを通し、改めて感じたこと。それは今こそ、皆一人ひとりが目醒め立ち上がる時だということだ。一人ひとりの想いを繋げ、創造し、再び大変革を起こす時代であると。
価値観が大きく二極化しつつも、その想いが次々と共鳴し、繋がり始める光景を見てそう感じている。
世のため人のためと、純粋な想いで願い行動を続ければ、必ずその想いは実現する。巡り巡って、必ず幸福の大輪を咲かせることができる。
想いを貫くことは、決して容易なことではない。何故なら人は、うつろいやすく弱い生き物であるから。
想いを貫こうとすれば時に強い苦しさを伴うこともあるけれど、強く願い行動し続ければ、いずれ叶う日が来る。自分達の力を信じて、毎日を歩み続けていこう。
たのしく、笑いながら、時には泣いたっていいと思う
人はそれぞれに、歴史やストーリーがある。それぞれに、大切にしていること、守りたい人がいる。
たのしく笑い、時には泣き、感動することが、やがて何かを生み出すのかもしれない。そして、多くの人々の心をも動かすものなのかもしれない。
魂の奥深い部分で、大きな共鳴を起こすのかもしれない。
信念や描きたい未来はそれぞれであるとしても、根元の想いは全て一つに繋がっている。一人ひとりの力を合わせれば、皆でさらに良いものを生み出すことができる。
時には、ぶつかり合ってもいい。互いの想いが強ければ強いほどに、曲げられないこともあるのだから。人は弱く未熟であるからこそ、互いに磨かれ、支え合うことが出来る。
それがこの世の醍醐味であり、とても尊いことのようにも感じる。そして、成長と調和によって生み出される新たな世界観が、未知の喜びやさらなる感動を生み出すのかもしれない。
笑う角には、福来たるというように
それらを繋げるには、笑いも欠かせない。「笑う角には、福来たる」というように。
どんな時も笑いながら、心ゆくまでこの人生をたのしんで。大切な想いは、きっと伝わる。繋がる。
私たちにはそれぞれ、大切に守りたい人がいる。信念がある。
そして、それらを守る力を持っている。神は、超えられる試練しか与えないのだから。
私も、先人の方々が守り抜いた「大切な想い」を忘れず、恐れることなく進み続けたい。
私たちは出逢い、交わり、創造する。
それを繰り返しながら、私たちはまた物語の新たな一ページを紡ぎ出す。
その喜びや無限の可能性を、心ゆくまで味わってみたい。先人の文豪と国民的画家の想いが響き合い、新たな芸術作品を生み出したエピソードから、改めてそう感じている。
最後までお読みくださり、ありがとうございます。
いつも支えてくださる皆様に、心より感謝申し上げます。
MAI
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